金丸前自民党副総裁の逮捕によって、わが国の公共事業をとりまく暗い噂がほとんどすべて本当だったことが明らかになりつつある。国民の税金が、談合によって建設業者の超過利潤になり、さらにその一部がヤミ献金によって政治家に還流していたことは、国民の納税意欲を減退させること甚だしい。
わが国の貧困な生活関連社会資本の現状からみて、これからも活発な公共投資を行う必要があることは衆目の一致するところであろう。90年代の10年間に430兆円の公共投資を行うという政府の公約も世論の支持を得たように思われる。しかし、公共工事が政治家の利権の温床になっているという状態に改善が見られなければ、社会資本投資に対する国民の支持も失われてしまう。
金丸事件をきっかけに高まっている入札制度への批判に答えるために、建設省は技術情報募集型指名競争入札などの新しい入札方式を導入することを打ち出している。しかし、これらの対策だけで、複雑に入り組んだ利権の構造に大きな変化をもたらすことができるとは、とても思えない。現在の公共事業費の配分システムや公共工事入札制度のどこをどう変えればのよいのかについて明確な方向性を打ち出す必要がある。
政治家、官僚、業界の間に迷路のように入り組んだ利権の構造の根底には、談合の蔓延がある。もし公共事業の入札で競争原理が機能していれば、建設業者は自分の経営努力によってしか落札を勝ち取ることはできない。したがって、巨額のヤミ献金を政治家に渡す必要はないはずである。また、競争が有効であれば、山梨の建設業者のように5ー10%のバックマージンを「上納金」として渡すというようなシステムは、維持できるはずがない。「上納金」を渡すグループに入っていないアウトサイダーは、バックマージンを払っていない分だけ低い入札価格を提示できるからである。
日米構造協議にともなうアメリカからの外圧によって、公正取引委員会の談合摘発が強化され、建設業界も独占禁止法の遵守を打ち出している。しかし、いまだにかなりのケースで談合が行われているようであり、業界関係者の間では談合が日本古来の良き慣習であると信じている人々も多い。
これまでの公共工事の発注では、談合の防止にはまったくといってよいほど配慮がなされておらず、談合を所与の前提として、その弊害を小さくすることだけに精力が注がれてきた。わが国に特有な厳格な予定価格制度や、発注者側が絶対の裁量権を持つ指名制度は、談合に対する対応であると考えられる。
予定価格制度のもとでは、発注者側が入札前に上限価格(予定価格)を積算することが定められており、それ以上の価格での落札は許されていない。したがって、談合が存在しても、落札価格が予定価格以上になることはない。ただし、入札価格が予定価格に達せず、入札不調の状態になると、工事が不可能になる。このような事態を避けるために機能しているのが、指名制度である。予定価格で落札しなければ次回以降の工事に指名しないという(暗黙の)脅しを用いて、入札価格を予定価格以下に抑え込むことができる。
談合が蔓延している状況でも、予定価格を適切に設定すれば、談合による独占利潤の発生を抑えることが可能である。しかし、予定価格だけに頼って談合を放置しておくと、長期的には大きな弊害が発生する。
技術開発や経営努力を重ねる企業が伸びていって、そうでない企業が淘汰されていくことが、長期的な効率化のためには不可欠である。ところが、談合によって受注の配分を行っている産業では、このような新陳代謝のメカニズムが働かず、非効率企業が温存されてしまう。予定価格はその時点の平均的な費用を前提に計算されるので、非効率な企業が温存されていれば公共工事のコストはその分だけ高くなることになる。
日本に進出してきている海外の建設業者が一様に主張するのは、日本の建設コストが国際的に見て非常に高いことである。(土地部分を含まない)建物の建築コストはアメリカのほぼ倍にもなっていると言われている。もちろん、わが国では地震対策の必要性や工事スペースの制約からある程度のコスト高になるのは避けられない。しかし、それらを考慮しても改善の余地は大きいものと思われる。談合体質による競争の欠如が建設コストの増加を生んでいる可能性は大きい。
また、わが国の建設業者は50万社も存在し、非効率な零細中小業者が多い。談合体質が強く競争制限が行われている産業では、企業数が非常に多くなる傾向があることは、産業組織論の常識である。競争制限行為によって利潤率が高くなれば、新しく参入しようとする企業が多くなり、また、既存企業で非効率な経営をしているものも談合によって生き延びることになるからである。
建設業の業界団体自体が独占禁止法の遵守を打ち出しており、業界サイドでは、本音はともかく建前としては、談合体質の除去に動いている。一番問題なのは、発注者側の対応が遅れていることである。現状では、談合を防止するような発注システムになっていないどころか、逆に、発注システム自体が実質的に談合を奨励したり、不可避にしたりしている。
第一に、工事の途中で受注業者が倒産して、工事の完成が不可能になったときのために、工事完成保証人を立てるか、保険に加入するかが求められる。わが国では保険が用いられることは少なく、工事完成保証人を用いるのが原則である。
工事完成保証人は、もし受注者が工事を完成できなかった際には、調達者側の追加的支払なしで代わりに工事を完成させることを約束するものである。同クラスの同業者が工事完成保証人になることになっていて、入札で同時に指名された業者がなることが多い。
工事完成保証人制度は談合組織の維持を容易にする効果を持っている。談合破りをした業者に対しては、次回から工事保証人を引き受けないという罰則を、談合組織が加えることができるからである。欧米では完成保証人制度を採用している国は皆無である。談合の排除をまじめに考えれば、このような制度を採用しないのは当然である。
第二に、わが国で多用されているJV(ジョイント・ベンチャー)制度は談合を実質的に不可避にしている。多くのJVでは、全国的に営業している大手から地方の中小業者まで規模の異なる企業を数十社から数百社まで集めたジョイント・ベンチャーを組むことを、発注者サイドが指定している。多数の業者を集めたJVを組むためには、業者同士が集まって相談しなければならないので、談合行為を調達者側が強制しているのと同様な効果を持っている。
また、このようなJV制度は、政治家が自分と関係の深い地元業者に公共工事を回して超過利潤を得させるための手段として乱用される傾向がある。
談合を行う企業は、独占禁止法違反で摘発されれば、刑事罰を含む処罰を受けることになる。談合をほぼ強制するような発注をする発注者サイドの責任も問われるべきである。
談合を排除するためには、談合を不可避にするような発注システムを改善するとともに、談合を防止するようなシステムを工夫する必要がある。
そのような工夫としては、(1)入札をなるべくオープンにして談合組織に入っていないアウトサイダー(他地域の企業や外国企業)の参入を促進する、(2)入札の際に費用の内訳を提出させるようにし、内訳のチェックを行う、(3)どの企業を指名したかを入札までは秘密にしておくことなどがあげられる。(これらについては、拙稿、『公共セクターの効率化』第4章(東京大学出版会)、及び「公共調達制度のデザイン」『会計検査研究』第7号(掲載予定)を参照されたい。)
品質の確保
談合が排除され、競争的な入札が行われるようになると、価格競争の激化によって不良工事が増加する可能性がある。不良工事の防止のためには、企業の技術力や工事の「品質」の評価システムを確立する必要が出てくる。また、「品質」が重要なケースには、価格だけの入札ではなく、価格と品質の双方を考慮して落札者を決定するシステムを採用しなければならない。
わが国の会計法における入札・契約制度に関する規定は、明治以来ほとんど変更がなされていない。その規定の多くは古色蒼然としたものであり、欧米諸国には類を見ないものが多い。その一つは上で述べた工事完成保証人制度であるが、競争入札に関する規定も例外ではない。
わが国では一般競争入札が原則であり、それが不利な場合にかぎって指名競争か随意契約によることができるとされている。ここで重要なのは、これら以外の契約方式は認められていないことである。また、一般競争入札、指名競争入札においての落札者の決定は価格のみによって行われ、技術力や広い意味での品質などを加えた総合評価は行わないのが原則である。(スーパー・コンピュータの調達の場合のように、例外的にこのような総合評価を行うことも不可能ではないが、その際には大蔵大臣との個別協議が必要である。)
欧米諸国においては品質や技術力の評価を加えることが認められており、日本のような硬直的な制度をとっている国は存在しない。わが国では品質評価を明示的に行うことができないので、不良工事や疎漏工事の防止のための手段としては指名権だけに頼らざるを得ないことになる。
もちろん、後述するように、現行の指名競争入札制度にはある程度の合理性があり、それを全面的に廃止すべきではないだろう。問題なのは、わが国の制度が異常に画一的であり、一般競争、指名競争、随意契約の三つ以外の契約形態が採用できなかったり、価格と品質の双方を明示することが困難であったりすることである。
昨年の11月に取りまとめられた中央建設業審議会の入札制度に関する建議でも、入札・契約制度の多様化が唄われているが、現行の法制度の枠内での多様化に留まっている。実質的な変化を実現するには、法制度の抜本的改革を行う必要がある。
今後は入札制度の多様化を図り、落札者決定の際にも品質評価を行うことを可能にする必要がある。しかし、発注者が品質や技術力の評価を行うことは、発注者の裁量権を拡大することになり、発注者サイドの不正行為や政治家の介入を招く危険性が大きい。したがって、発注者の恣意性を排除するための様々な制度的枠組みを作ることが必須になる。品質評価を導入している欧米諸国では、この種の制度的枠組みが整備されており、それらが参考になる。
第一に、技術面の品質評価を行うのは、発注担当者とは独立した審査委員会である。この審査委員会は発注官庁の内部に作られるのが普通であるが、独立性を維持するために、そのメンバーは入札企業の営業担当者などと接触することが禁じられていることが多い。
第二に、この種のルールが守られているかどうかは省内の検査組織や会計検査院が検査するし、違法行為については司法当局の捜査が行われる。
第三に、落札できなかった入札者の異議申し立てが認められている。異議申し立てを審査する機関は発注官庁の中に置かれていることは少なく、会計検査院などの独立性を持った機関が裁定するようになっている。
わが国の指名競争制度は、指名業者の選定が品質維持の大きな役割を担っており、落札者の決定に際しては価格だけしか考慮しない。このようなシステムにもいくつかのメリットが存在し、一概に悪いとは言えない。
指名競争制では、指名時に企業の技術力の評価を行うことができ、それを使って一定の品質を確保することができる。また、発注者が指名の裁量権を持っていれば、次回以降の指名を目指して、現在の工事を頑張るというインセンティブを付与することができる。
指名を用いて品質を確保する方式の一番のメリットは、調達担当者の不正行為や恣意的な発注の危険性が相対的に小さいことである。たとえ、調達担当者がある特定の企業と結び付いていて指名の際に優遇しても、その企業を指名するだけでは受注を保証することはできない。指名企業間の競争があるからである。
しかし、このメリットは、発注担当者が良心的であり、指名の際に品質をきちんと評価していることが前提になる。そのような意図が全くない発注担当者に対して裁量権を与えることは何の意味もない。
また、金丸事件の教訓の一つは、たとえ発注者本人は良心的であったとしても、裁量権の存在は政治家の介入を招くことである。
指名権の乱用を防ぐために、発注担当者の裁量権を制限する必要がある。
第一に、イギリスや東京都の発注で行われているように、指名の前に入札を希望するかどうかを確かめる仕組みを作るべきである。公式に入札希望をとっていれば、何度希望しても指名されない企業は異議申し立てをできる制度をつくることができる。
第二に、指名のルールを明確化し、それを公表することを義務づける必要がある。
第三に、指名業者を選択する委員会を発注担当者から独立させ、この委員会が業者の技術評価や過去の実績を継続的に行いながら指名業者を選ぶようにする必要がある。
第四に、指名権の運用が適切であるかどうかを外部機関が検査する必要がある。また、何度希望しても指名されない業者が異議申し立てをできる制度が必要である。
個所づけの不透明性とプロジェクト評価(費用便益分析)の必要性
入札制度以外にも、わが国の公共事業における問題点は多い。その一つが、「個所づけ」に関する不透明性である。国の補助事業については、工事個所を決める「個所づけ」がごく一部の官僚によって行われていて、政治家やその後ろにいる建設業者とのつながりが噂されている。
もちろん、公共事業は公共部門の仕事であり、民主社会では政治的な意思決定が欠かせない。したがって、公共事業の事業計画について政治家が関与すること自体が悪いということはできない。
しかし、政治プロセスが有効に機能するためには、政策の便益と費用についての情報が有権者に提供されていることが不可欠である。我が国では情報公開が不十分であり、官僚が情報を独占する傾向が大きい。
特に公共事業に関しては、その便益が全体としてどれだけであり、誰がどれだけの費用負担をするのかという基本的な情報が公開されていることが必要である。
公共事業プロジェクトの費用便益分析とその情報公開は欧米諸国のほとんで義務付けれられている。例えば、フランス政府はTGVの建設に先立って、各計画路線についての費用便益分析を行い、その結果を公表している。このような費用便益分析はフランスに限らず、ドイツでもアメリカでも、主要な公共事業プロジェクトについて必ず行われている。
我が国では、ODAのプロジェクトについてはこの種の費用便益分析を行っているが、国内の事業については必ずしも行われていない。また、費用便益分析を行っている場合でも、その結果は予算折衝の資料として大蔵省に提示されるだけであり、国民全体に公開されることがない。このことが我が国における公共事業配分の政治的意思決定プロセスを非常に不透明性にしている。
わが国では、十数隻の漁船しか使わない漁港の防波堤投資に何億も費やすといった非効率な投資が横行している。費用便益分析が行われ、その結果が公表されるようになれば、このようなケースは減少するであろう。
費用便益分析は、同じタイプのプロジェクトの間の優先順位をつけるのには、非常に有効である。例えば、いくつかの新幹線路線のうちでどれを選ぶべきかといった問題については、かなりの精度の答えが得られる。しかし、河川整備と道路整備の間の予算配分をどうするかというような、異なったタイプのプロジェクトの間の選択についての有効性は限られている。
したがって、異なったタイプの間の予算配分については、旧来の政治的プロセスに頼らざるを得ない場合が多い。ところが、わが国では、複雑に入り組んだ国の補助制度と直轄事業が、この種の政治的意思決定を大きく歪めてしまっている。
国からの補助金や国が行う直轄事業は、地方政府にとっては自分の懐がいたまないので、とにかく多く取れば取るほどよい。したがって、地元選出の国会議員に働きかけてそれらの配分を増やそうとするのは当然である。また、国会議員の方も、地元に補助金を取ってくることによって、自分の選挙を有利にしようとすることになる。
この種の構図がある限り、国会議員による地元への利益誘導はなくならないし、それにまつわる利権の発生も避けられない。
経済学の基本は、フリー・ランチ(ただメシ)は存在しないということである。ところが、現行の地方財政システムは人為的にフリー・ランチを作ることによって、他人の財布をあてにする「ただ乗り」文化を作り上げてしまった。
公共投資に関する政治プロセスの成熟のためには、直轄事業、補助制度、地方交付税制度のすべてについての見直しが必要である。投資に関する費用負担と意思決定を、便益を受ける地域の住民が行うようにしなければならない。
最近では、都市圏の拡大にともなって、都道府県をまたがって便益を及ぼす投資プロジェクトが多くなっている。(その典型例は、東京圏における鉄道投資である。)現状では、このようなプロジェクトは国が中心にならざるを得ないが、全国から集まる国会議員の大半は全く関心を持っていない。したがって、緊急性の高い東京圏の通勤鉄道よりも、地方部の整備新幹線の方が優先されてしまう。このようなことを避けるためには、道州制などのような、都道府県を超える組織が必要になる。
最後に、最近話題になった新社会資本について触れておきたい。財政再建のために、大蔵省は経常支出についてはシーリングで厳しく抑えてきたが、建設国債でまかなえる公共投資については相対的に抑制をゆるくしてきた。その結果、公共事業については無駄な投資が数多く見受けられるのに、その範疇に入らない投資は虐げられてきたと言ってよい。
このような傾向が新社会資本のコンセプトの登場によって改善されれば、それは歓迎すべきである。しかし、各事業についてのプロジェクト評価なしに、新社会資本の掛け声だけで、パソコン購入などの一部の投資を優遇することは、新たな問題を発生させてしまう。
新社会資本の概念を使うべき対象として重要なのは、民間企業による社会資本投資である。例えば、地下鉄投資は地方自治体や営団などの公共的主体が行うので公共投資として扱われるが、それとまったく同じ機能を持つ私鉄(及び民営化されたJR各社)による鉄道投資は公共投資の範疇に入っていない。そのことを反映して、地下鉄投資に対する補助は私鉄による鉄道投資に対する補助よりもはるかに手厚いものになっている。
社会資本投資に対する補助は、その投資が及ぼす外部便益の程度に応じて行われるべきであり、単に運営主体が公的主体であるかどうかによるべきではない。例えば、ドイツでは鉄道事業に対する一般会計からの補助は、鉄道がもたらしている社会的貢献に応じて計算されている。新社会資本の概念が、この種の制度改革につながれば、大きな便益を国民に及ぼすことになる。