金本良嗣・東京大学経済学部
3月末に、1091項目にも及ぶ「規制緩和推進計画」が閣議決定された。当初は5年計画であったのが、3年計画に前倒しされるというおまけまで付いたが、項目数の膨大さの割に中身が薄いというのがもっぱらの評判である。読んでみると、確かに大胆な規制緩和とはほど遠いものであることが分かる。
もちろん、何の制約もない完全に自由な競争がうまくいかないこともほとんど自明である。現代社会において特に重要なのは情報であるが、情報にかかわることについては自由な競争だけではうまくいかないことが多い。たとえば、知的財産権の侵犯が有効に規制されていなければ、情報化社会における経済システムは機能不全に陥ってしまう。また、品質規制や安全規制が必要なことがあるのは、品質や安全に関する情報の問題による。これらの情報がすべての人に行き渡っていれば、品質規制や安全規制は不必要である。消費者が十分な情報を持っていれば、品質や安全性に問題のある商品には、それなりの低い価格しかつかないからである。したがって、安全規制や品質規制が必要になるのは、情報の不完全性が存在する場合だけであると言ってよい。
規制緩和政策の難しいのは、規制を撤廃すべきか、すべきでないかという、白か黒かの単純な選択にはならないことである。たとえば、アメリカやイギリスの国内航空において行われた規制緩和は、新規参入と運賃についての規制をほぼ完全に撤廃するという大胆なものであったが、それでも安全規制は残っているし、独占力の大きい座席予約システムに対する規制も行われるようになった。さらには、航空会社の使う空港施設の整備や空港スロットの配分に関しても公共的な関与(地方自治体によるものが多いが)が残っている。したがって、規制緩和の問題は、既存の規制体系から新しい規制体系への移行ととらえる必要がある。
また、どのような規制体系が望ましいのかは、各産業の費用と需要の構造や技術革新のスピードなど様々な要因に依存し、個別事例の詳細な分析が必要になる。たとえば、電力や通勤鉄道などの独占力の大きい産業には価格規制がなされているが、パーソナル・コンピュータ用のCPUをほぼ独占しているインテルに価格規制をかけることはほとんど考えられない。これは、技術革新のスピードが遅い電力や鉄道では規制の弊害は相対的に小さいのに対して、技術革新が目覚ましく、R&D投資の重要性が極めて大きいCPU産業では、規制によるインセンティブのゆがみは致命的な弊害をもたらすからである。
日本の規制制度の問題点を具体的に見るために、昨年から運輸省とJRの間で対立が続いている鉄道事業の規制について見てみよう。新聞報道によれば、JR側は上限価格(プライスキャップ)制度の導入を要求しているが、運輸省はそれに強く反対している。イギリスやアメリカでは規制当局がイニシアチブをとって、上限価格規制、インセンティブ規制、社会契約規制などの新しい規制制度を導入している。これと対照的に、日本では、規制当局が既存の規制の枠組みの変更に強く抵抗していることは興味深い。
欧米諸国が新しい規制方式の導入に積極的なのは、総括原価主義によるコスト・ベースの規制が経営合理化の面で大きな弊害をもたらしてきたという認識があるからである。総括原価主義による規制では企業側に経営合理化のインセンティブが決定的に欠けている。経営合理化を行っても、その結果価格を下げさせられてしまうので自分の利益にはならない。また、経営努力をしなくても、コストが上がれば価格を上げることができる。
日本の規制当局には、経営合理化の努力を査定して、規制権によって料金を下げさせることが可能であると言う人が多い。しかし、民間企業と比較すると、各省庁自らが管理する公共部門の非効率性は歴然としており、このことが規制権限による経営合理化の限界を如実に物語っている。
総括原価主義のもとで、規制権によって料金を下げさせようとしたことの弊害は、70年代の民営鉄道に顕著にあらわれている。公共料金値上げ抑制のかけ声のもとに、運賃値上げを抑制したが、これが私鉄の投資意欲を阻害した。80年代になって特定都市鉄道整備促進特別措置法が制定されるまでは、複々線化投資などの大規模投資がほとんど行われなかったのはその反映であった。
最近も、国際的に見た公共料金の割高さが、公共料金値上げ抑制の政治的圧力をもたらしている。しかし、総括原価主義を維持したままで、料金値上げを抑制すると、70年代と同様にサービス水準の低下などの弊害がもたらされる。上限価格規制の反対論者によれば、上限価格規制の問題は、利用者サービスの低下や長期的な設備投資がなおざりにされることである。しかし、総括原価主義のもとでも同じ問題が発生したことを忘れてはならない。
日本において今まで支配的であった規制の発想は、
(1)コスト(正常利潤を含む)以上の料金をつけさせないというコスト主義
(2)経営合理化については、規制者による裁量的な査定や行政指導でコントロールしようとする裁量的直接規制
の二つであった。このような方式では、
(1)経営努力のインセンティブがないのでコスト高になる。
(2)無理に料金抑制をしようとすると投資意欲の低下などの弊害が発生する。
(3)規制者の裁量権が大きく、規制が不透明になりがちである。また、規制者の裁量権は天下りなどの省益の確保に使われることになり、規制当局の中立性が損なわれる。
といった欠点をもっている。
日本の規制政策の改善のためには、この「コスト主義+裁量的直接規制」の発想を転換し、「企業に経営努力のインセンティブを与えることによって料金の抑制を図る」というインセンティブ規制の視点から、規制制度を再構築する必要がある。企業インセンティブの制御のためには、事前に規制の詳細を定式化しておく必要があるので、これは規制の透明性の確保にも役立つことになる。
上限価格規制がどういうものであるのかについてはすでに様々な場所で議論されているので、ここでは簡単に概略を解説するにとどめたい。
従来の総括原価主義による規制(大手私鉄ではその特殊なタイプである公正報酬率規制が用いられている)では価格の水準を定めていたのに対して、上限価格規制は価格上昇率の上限を定める。たとえば、従来の方式ではJRの初乗り運賃が120円であると決められ、これを変更するときには運賃改定の申請をして、規制当局の認可を受ける必要がある。これに対して、上限価格規制のもとでは、たとえば、運賃の上昇率が「消費者物価上昇率マイナス1%」以下でなければならないとし、これ以内の運賃値上げは自動的に許可される。
上限価格規制のもう一つの重要な特徴は、個別のサービスの価格を規制するのではなく、サービス分野毎にその平均価格を規制する。たとえば、首都圏通勤路線、都市間幹線路線、地方路線等に分割し、それぞれの運賃の平均に上限を設定するが、個別のサービスや路線についての運賃設定には自由度をもたせるといったことが考えられる。この方式では、都市間幹線路線の普通運賃と特急料金の合計には上限規制がかかるが、その合計を普通運賃と特急料金へどう配分するかには自由度がある。また、航空や高速道路との競争の激しい路線では運賃の割引を行うことができるし、大幅な閑散期割引を行うこともできる。
さらに、上限価格規制では規制の見直し期間(たとえば、5年間)を固定し、その期間を過ぎると自動的に見直しを行う。もちろん、期間内でも、事業者に予想外の利潤や損失が発生すると、見直しが行われる。この中途での見直しは、事業者の申請によることもあれば、規制官庁側から行うこともある。これに対して、従来の総括原価規制では申請主義が採用されており、料金改定は事業者の申請による。したがって、日本での電力料金のように10年以上も正式な料金改定が行われないケースがありうる。
上限価格規制のもとでは超過利潤が発生するという批判があるが、実際の上限価格規制の運用では超過利潤の発生が明白になると規制の見直しが行われる。したがって、コストとかけ離れた料金が許されているわけではない。この意味では、上限価格規制も完全にはコストベースから脱却していない。上限価格規制の主眼は、物価上昇率や生産性向上の予想を用いることによって、規制当局による規制の見直しの頻度を小さくすることである。
通常の総括原価主義による規制でも、料金改定の頻度が小さい場合には経営効率化のインセンティブはあまり阻害されない。料金改定の間近では、コストが上がった分だけ料金を上げることができるので、経営努力のインセンティブは失われる。ところが、料金改定が遠い将来であると予想されていれば、コストを下げて利益を増やそうとするインセンティブが存在する。このような現象は、「規制ラグによるインセンティブ効果」として、ずいぶん前から知られている。上限価格規制は規制の見直しの頻度を小さくすることによって、規制ラグのインセンティブ効果を最大限に生かそうとするものである。
上限価格規制の第二の長所は、サービス分野(バスケット)毎に規制を行うので価格設定の自由度が高まることである。航空と同様に鉄道でも、空気を運ぶよりは、運賃を割り引いてでも乗客を運んだ方が、事業者にとっても利用者にとっても望ましい。したがって、閑散期割引などの多様な割引政策を、柔軟にしかも機敏性をもって行うことができることのメリットは大きい。
現行の鉄道事業の規制でも、特急料金やグリーン車料金については事前届出制になっており、運賃割引についても、鉄道事業の総収入を減少させないという条件付きではあるが、50%までは事前届出だけでよい。このような特定分野について自由化を行うという方式に比較すると、バスケット毎に規制を行うという上限価格規制の方がよりシステマチックであり、合理性をもっている。たとえば、特急料金について自由化し、普通運賃が規制されていると、特急料金を大きく値上げすると同時に特急以外の列車を極力少なくしようとする行動が起きる。これに対して、都市間幹線鉄道全体の(平均)価格水準についての上限を設定すれば、特急に偏った運行を行おうとするゆがみは発生しない。
上限価格規制の第三の長所は、規制方式が単純明快であり、透明性が高いことである。このことが規制当局の恣意的な裁量の余地を小さくし、規制官庁による省益の追求によるゆがみを抑えることにつながる。アメリカの公益事業規制は、規制委員会の前で規制事務局と事業者が自分たちの議論を展開し、それに対して委員会が裁決を下すという方式をとっている。したがって、アメリカでの公益事業規制は透明性が極めて高い。これに対して、日本の規制は規制当局が一方的に査定するだけであり、その内容の公正さを審査する独立の第三者機関は存在しないし、査定内容の詳細は公開されない。
欧米諸国で上限価格規制が導入された一つの理由は、透明性の極めて高い彼らの規制方式では、規制当局の自由度が小さく、潤沢な資金をもつ事業者に太刀打ちできなかったことである。しかし、日本では事情が全く反対であり、既存の総括原価規制では規制当局の査定の裁量権が大きく、規制の透明性が確保できない状態である。欧米では上限価格規制に規制当局の裁量権を大きくするという効果が期待されているが、逆に日本では規制当局の恣意的な裁量を抑える役割をもつ。このことが、規制官庁が上限価格規制の導入に強硬に反対している理由であるといってよいであろう。
上限価格規制の短所として運輸省が主張していると報道されているのは、「混雑緩和や高齢者に配慮したサービス拡充など、収益に直結しない設備投資をしなくなる」という点である(日本経済新聞5月3日)。しかし、企業が収益に直結しない設備投資をしたがらないというのは、上限価格規制であろうが総括原価規制であろうが同じである。総括原価規制のもとで企業が投資を行うインセンティブをもつのは、投資が料金値上げによる収益増に直結するからだけである。
大手私鉄に適用されている公正報酬率規制は、総括原価主義の一例であり、資本投資に対して一定の報酬率(公正報酬率と呼ばれる)を乗せたものを用いて料金設定を行う。その際に用いられる公正報酬率が適切に設定されていなければ、企業の投資は過剰になったり過少になったりする。日本の私鉄に対する規制では、兼業収入で鉄道事業の損失をカバーできるという議論が多く、これを反映して、公正報酬率の水準は低めに抑えられていた。このような場合には、企業の投資意欲は阻害されることになる。したがって、既存の規制方式が適切な投資をもたらしていたという保証はない。
上限価格規制が事業者の設備投資を過小にするのは、投資がサービスの品質を向上させるが、利用客の増加を招かないようなケースである。通常の商品の場合には、品質を向上させれば価格を上げることができるので、販売量が増加しなくても収入が増加する。ところが、上限価格規制のもとでは価格を上げることによる収入増が見込めないので、このような投資が行われなくなる。
混雑緩和投資はこのような性格をもっており、上限価格規制のもとでは著しく過少になると言われることがある。しかし、混雑率が低下した路線では利用客が増加し、数年の内には混雑率の上昇が見られることが多い。したがって、混雑緩和投資が乗客を全く増加させないわけではない。また、複々線化による交通容量の増加は、混雑を緩和させるとともに、快速電車と緩行電車との分離を可能にすることによって大幅なスピードアップをもたらす。スピードアップは通勤圏を拡大させ、その結果、乗客一人当たりの平均乗車距離を長くする。したがって、運賃値上げをしなくても、電車のスピードアップは収入を増加させることになる。
もちろん、混雑緩和の見返りとしての運賃値上げができなければ、多少なりとも混雑緩和投資が不足することは考えられる。ただし、すでに述べたように、既存の公正報酬率規制が最適な投資をもたらす保証はない。また、公正報酬率規制のもとでは、投資コスト削減のインセンティブが確保できないという大きな弊害が発生する。被規制企業では設備投資のコスト管理が甘く、その見返りに納入企業に天下りしている例が見られるのはこのような弊害の一例である。
効率化のインセンティブを保ちながら、混雑緩和投資のインセンティブを与えるためには、混雑緩和によるサービスの向上に見合った運賃値上げを認めればよい。その具体的な方式として、アメリカで採用されつつある社会契約規制の考え方を適用できる。通常の上限価格規制につけ加えて、混雑緩和に成功した事業者には幾分かの付加的な運賃値上げを認める契約を、規制当局と事業者が結ぶ方式である。
上限価格規制に対する批判の第二は、競争の存在する分野と存在しない分野で差別的な料金設定がなされるというものである。鉄道事業のように固定費が膨大な産業では、固定費部分を回収するために、ある程度の差別価格は避けられない。現状でも、地方圏での赤字を独占力の大きい大都市圏での黒字で埋めており、差別価格が行われている。また、差別価格の行き過ぎが望ましくないと考えるならば、独占力が大きい大都市圏の通勤鉄道については都市間幹線鉄道と分離して、別々に上限価格を設定することが可能である。
批判の第三は、価格上昇率の上限として、通常は物価指数から生産性向上率を引いたものを用いるが、生産性向上率の予想が困難であるというものである。しかし、鉄道事業での技術革新は急激ではないので、この問題は大きくないと思われる。また、予想が大幅に誤っていた場合には規制の見直しが可能である。上限価格規制の主要な目的は、規制の見直しまでの期間をなるべく長くすることにあり、物価上昇率や生産性上昇率の予想を用いることによってそれが可能になれば、目的を達したことになる。
上限価格規制の批判の第四は、事業者の費用情報が規制官庁に提出されなくなるので、規制者と事業者の間の情報格差が拡大するというものである。しかし、上限価格規制でも、上限価格の設定のためには詳細な会計情報が必要であり、そのための資料提出と情報の正確性の検査がなくなるわけではない。特に、独占力の大きい首都圏とそれ以外の路線の収支とを分離するために、路線別の収入と費用の情報が必要である。
ただし、路線別費用については共通費の配分に恣意(しい)性が大きいことに注意が必要である。原価主義の規制では、何らかのルールを用いて共通費を各部門に配分することが行われることが多いが、鉄道事業の場合には大きな弊害をもたらす可能性がある。路線別費用の算定については、共通費を無理に配分することはせずに、共通費と路線別費用とを別建てで計上する方が望ましいであろう。また、当然のことながら、鉄道部門の収支を兼業部門の収支から分離する必要があり、そのための会計基準を確定しなければならない。
これまでの日本の規制制度の最大の問題は、規制官庁の裁量権の大きさとその裁量権の行使における不透明性である。アメリカから輸入した公正報酬率規制が多くの産業で用いられているが、その運用形態はアメリカとは似ても似つかないものになっている。上で述べたように、アメリカの公正報酬率規制は裁判に似た運営の仕方がされており、規制の公正さと透明性に重点が置かれている。これに対して、日本の規制制度は透明性に乏しく、規制官庁の査定が適切に行われているかどうかは、外側からは分からない。規制官庁が国民の信託に答えて、詳細で専門的な分析を行い、中立的な見地から最善の規制を選択していれば問題はない。
ところが、実際には、各官庁は「国益なくして省益あり」といった行動をとることが多い。日本の各省庁は独立した組織であり、組織としての一体性が顕著である。職員の採用を各省庁が独自に行い、その後の昇進もそれぞれの官房が中央集権的に行う。さらに、退職後の天下り人事も官房が取り仕切っており、一種の終身雇用組織である。このように各省庁が独立した組織であることを考えれば、組織の利害を第一に考える傾向が発生するのは当然である。
規制官庁が規制緩和に激しく抵抗するのは、規制の裁量権が天下り先の確保などの組織の利権につながっているからである。規制官庁は、国民の信託を受け中立的な機関であるはずなのが、いつの間にか自分たちの組織の利害を追求する集団と見られるようになってしまった。金丸事件以降の世論の批判を受けて、建設省は高級官僚の建設業界への天下りを自粛しているが、他の官庁は追随していない。規制官庁から被規制業界への天下りが続いている限り、規制官庁が国民の信頼を回復することはできないであろう。
このような文脈から見ると、上限価格規制に関する運輸省とJRの対立の核心は、既存の規制方式の裁量権限を残したい運輸省と規制者の裁量権の少ない方式にもっていきたいJRとの対立であると言えるのではないだろうか。上限価格規制導入の最大のメリットは、日本の規制制度を単純で明確なルールに基づいたものに変えることによって、規制官庁の恣意的な裁量を抑制することにあると思われる。