信託契約や不動産の証券化などに見られるように,不動産契約の多様化が新しい潮流となりつつある.また,借地・借家法改正の審議が進んでおり,借地契約と借家契約のあり方も大きな政策的課題になっている.このような問題の経済学的分析は最近までほとんど存在しなかったが,契約の経済理論の発展によって不動産契約についても理論的に厳密な分析が可能になってきている.(契約の経済理論の最近の研究成果の展望としては Hart and Holmstrom (1987) が優れている.)以下では,契約の経済理論の立場に立って,売買契約,借地契約,借家契約の相違を分析する.借地契約と借家契約に関しては,借り手の権利保護が重要な問題になるので,権利保護の程度の相違がどのような影響を及ぼすかも分析の重要な課題になる.
契約形態の相違が実質的な意味を持つのは,市場が不完全にしか機能しない場合に限られる.市場が完全に機能するためには,いくつかの条件が成立していなければならないが,それらのうちで重要なのは,取引のための取引費用がかからないことと,情報が完全であることである.不動産市場ではこれらの両者とも満たされていない.
まず,取引費用については,適当な物件を探すときの調査費用(これには金銭的費用と時間費用の双方がふくまれる)や不動産仲介業者に対する手数料の支払いが馬鹿にならない.また,特に日本で重要なのは,税制によって売買に関する取引費用が借地や借家に比較して極めて高くなっていることである.不動産を売買したときには,不動産取得税,登録免許税,印紙税のような取引税が課税される.さらに,譲渡所得税や相続税も実質的に大きな取引費用になっている.譲渡所得税は土地を売却した時に課税されるので取引費用の一部を構成している.相続税は直接的には取引費用になるわけではないが,相続税のための資産価値の評価が土地に関しては市場価格よりはるかに低い(半分以下と言われている)ので,実質的には重要な取引費用となっている.つまり,土地を売却して金融資産を購入し金融資産を相続すると資産の市場価格に対して相続税が課税されるのに,土地のままで相続すると市場価格より低い評価額に対してしか課税されない.したがって,土地の形で相続すれば,相続税をはるかに少なくすることができる.この相続税の節約分が土地売却の取引費用になっていると解釈できる.
情報の不完全性に関しては,建築物が非常に耐久性に富んでいることと不動産の特性が非常に複雑であることとが大きな意味を持っている.建築物はきわめて耐久性に富み,木造建築でも数十年の償却期間を持っているので,不動産契約については長期的な視点が欠かせない.ところが,長期になればなるほど将来の不確実性が大きくなるので,情報の不完全性の問題が深刻になる.
また,不動産には2つとして同じ物はなく,各々が異なった特性を持っており,しかも,それらの特性は非常に複雑である.したがって,不動産の技術的特性のすべてに関して法的に強制力を持つ契約を書くことはほとんど不可能である.たとえば,借地契約の場合でも,土地を賃貸するときにその上に建てられる建築物に関して詳細かつ完全な契約を結ぶことができれば,所有者が自分で建物を建築して借家を経営するのと実質的にはまったく同じになる.一般に,完全な契約を結ぶことができれば,持ち家,借地,借家の間に実質的な相違は存在しない.しかしながら,実際には契約は不完全であり,たとえば,借地人が建築する建物について地主が細部にわたって指示することは困難である.また,借家の場合には,家屋の細かい特性について借家人が持ち主と交渉することも困難である.したがって,建築物の特性についての契約は極めて不完全であり,借地の場合には借地人が建築する建築物は地主が望むものとは隔たりがあり,借家の場合には借家人が望む住宅が建築されるとは限らない.
契約の経済理論で意味を持つ情報の不完全性は,情報の非対称性であって単なる情報の不完全性ではない.情報が不完全であってもすべての人が同様に無知である場合には,情報が完全である場合と同様な分析が可能であり,ほとんど同じ結果が得られる.しかしながら,情報を持っている人と持っていない人とが存在する場合には問題が複雑になる.情報を持っている人が,自分に有利になるように情報を使おうとするからである.
情報の非対称性に関して最初に注目を集めたのは,契約の当事者間の非対称性であった.たとえば,住宅の買い手は住宅の構造上の欠陥を知ることは困難であるし,家主は借家人がどの程度注意深く住宅の手入れをしているかを知ることは困難である.このような当事者間の情報の非対称性の問題は,エイジェンシー理論や逆選択,自己選択の理論で分析されており,既に膨大な量の研究が存在する.
契約の経済理論でもう一つ重要な情報の非対称性は,契約の当事者と裁判所などの第三者との間の情報ギャップである.契約が法的に強制可能であるためには,契約に定められている事項を契約の当事者たちが観察できるだけでは十分でなく,第三者(裁判所)が検証することが可能でなければならない.ところが,実際には第三者によって検証することは不可能なことが多い.たとえば,借家契約で問題になる住宅の維持管理については,借り手が維持管理を適切に行なわなかった場合にはペナルティーとして家主に一定の額を支払うような契約を結ぶことが考えられる.しかしながら,借り手がどの程度注意深く家屋の維持管理を行なっているかを知ることは外部の者にとっては困難である.つまり,家屋の傷みが居住者の不注意や管理の落度によるものであるのか,あるいは,不可抗力であるのか,または,欠陥建築によるものであるのかを知ることは容易でない.このような場合には当事者同士では情報が完全であっても,契約が守られる保証はない.どちらかが嘘をついたときに,どちらが嘘をついているかを明らかにすることができないからである.
以下では,第三者による検証不可能性の問題に焦点を当てて不動産契約の分析を行なう.我々の仮定する契約の不完全性は以下の二つである.第一に,土地の上に建てる建築物の特性について第三者による検証が不可能であると仮定する.したがって,借地の場合には地主は借地人が建てる建築物の特性を制約するような契約を結ぶことはできない.逆に,借家の場合には借家人は住宅の特性に関して口をはさむことができない.第二の不完全性は,取引費用の存在である.取引費用については,売買が最も高く,借家契約が最も安く,借地契約がその中間であるとする.8節では,これらの不完全性に加えて借家人による住宅の維持管理に関する情報の不完全性を導入する.
本稿は Kanemoto (1989) での分析をなるべく分かりやすく解説したものである.より詳細で厳密な説明についてはこの論文を参照されたい.