日本における政策論争は、議論がかみ合わず水掛け論になってしまうことが多いが、遷都問題もその一つである。このようになってしまう大きな理由は、政策の費用便益分析が行われないことである。たとえば、遷都が国民全体にとって本当に望ましいのかどうかを判断するためには、その社会的費用と社会的便益を比較しなければならない。欧米では、大規模な公共投資に関しては、費用便益分析を行って、その結果を国民に公表することが義務づけられている。日本における政策論議が深化していかないのは、この種の分析が行われることが少なく、行われたとしてもその詳細が国民に公表されないからである。
首都機能移転の費用便益分析は、理論的なコンセプトとしては難しいものではないが、本格的な分析のためにはデータの収集・整理・計算のためにかなりの労力が必要である。以下で紹介するのは、本格的な費用便益分析のための予備的な検討であり、筆者が「首都機能移転の効果」(八田達夫編『東京一極集中の経済分析』第8章、日本経済新聞社、1994年)で発表したものを大幅に簡略化し、若干の修正を加えたものである。
遷都のような大プロジェクトは、経済全体に大きな波及効果をもたらすので、その費用便益分析は非常に複雑である。その結果、往々にして、便益の2重計算などの誤りが発生する。この種の誤りを避けるためには、首尾一貫した理論モデルを用いて概念的な整理を行う必要がある。ただし、複雑なのは間接効果についてであり、直接効果に関しては、少なくとも概念的には困難な問題は存在しない。まず、直接効果に限定すると、遷都の便益と費用はどの程度になるのかを見てみよう。
遷都の直接効果の代表的なものは、(1)新首都建設費用と移転費用、(2)移転跡地の利用による便益、(3)移転によって発生するコミュニケーション費用の増加の3つである。これらの3つのそれぞれについて、以下のような大雑把な計算ができる。
用地費 5兆円
基盤整備費 2兆円 施設整備費 7兆円 | 通信・交通費用 4兆円以下 | 霞ヶ関官庁街 10兆円
公務員宿舎等 ? | |
第一の新首都建設費用に関しては、国土庁の『首都機能移転問題に関する懇談会』報告書(1992年)が試算を行っており、14兆円になるとしている。この試算は、首都機能自体のために施設に加えて、関連サービス産業を含めた60万人の人口のための、9千ヘクタールに及ぶ住宅開発を想定している。合計14兆円の費用の内訳は、用地費が5兆円、基盤整備費が2兆円、施設整備費が7兆円となっている。この推定が過大であるか過小であるかはここでは議論せず、とりあえずの目安としてこの数字を使っておきたい。また、首都機能の移転にともなって発生する引っ越しの費用は、新都市建設費用に比較すれば、ごくわずかであるので、無視して良いであろう。
移転跡地の利用による便益とコミュニケーション費用の増加は、国土庁の報告書では計算されていない。これらについては以下のようなごく大雑把な試算ができる。
まず、霞ヶ関の官公庁施設を民間企業に売却してオフィスとして用いると、オフィスとしての利用から便益が発生する。この場合には、跡地の売却価格を便益の推定値として用いることができる。跡地を公園などの公共的用途に利用したときには売却収入は入らない。しかし、公共的な用途に用いるのは、民間に売却したとき以上の社会的便益が得られるときのはずであり、その時の便益は土地の市場価格を上回るか等しくなっていなければならない。
90年代に入って都心部の地価は大幅に値下がりしたが、それでも霞ヶ関周辺の地価は1平方メートル当たり1千万円前後である(平成6年度の地価公示による)。これを霞ヶ関の官公庁団地の面積の100ヘクタールにかけると、霞ヶ関跡地は約10兆円の価値があることになる。さらに、公務員宿舎は都内の一等地に数多く存在するので、その跡地の価値も膨大なものになる。また、移転する公務員で公務員宿舎に住んでいない人々や関連産業の従業員の住宅も、他の人々が利用できるようになるはずであり、そのことの社会的便益も膨大である。
第三の首都移転によるコミュニケーション費用の増大には、政府自体にとっての費用に加えて、個人や企業が政府とのやりとりに費やさなければならない出張費用や通信費用が含まれる。
通信費用については、3分間10円の市内料金であったのが、長距離料金になる。しかし、現行の電話料金体系での遠近格差は社会的費用の差をはるかに上回っているので、料金の差では社会的費用の評価はできない。現在の光ファイバー技術では距離が長くなっても通信コストはほとんど変化しないので、移転による通信費用の増加は大きくないものと考えられる。
出張費用の推計は困難であるが、国会や中央官庁などへの現在の訪問者数が年間約1千万人であることを用いると、以下のような概算ができる。もし新首都が東京から新幹線で1時間程度の距離のところにできると、往復で2時間の時間費用と新幹線の料金がかかる。時間費用が1時間1万円であるとし、新幹線の料金が片道1万円であるとすると、一人当たり4万円のコストがかかることになる。これに1千万人をかけると、年間4千億の費用がかかる。新首都建設費用と比較するために、金利が5%であるとしてストック換算すると、8兆円になる。
ただし、東京から1千万人もの人々が新首都に行くとは考えられず、訪問者数が大幅に減少するであろう。また、他の地方からくる人々にとっては、東京であろうと新首都であろうと費用はそう違わない。したがって、8兆円の費用は大幅な過大推定であると思われる。
この推定が過大であると思われるもう一つの理由が存在する。それは、企業が政府とのやり取りをするのは各企業にとっての利益が増加するからであるが、これは経済全体にとっての便益とは必ずしも一致しないことである。役所に日参して情報収拾やロビーイングに励むのは、他の企業との競争を有利にするためであるという側面がある。他の企業に出し抜かれないだけのための情報収拾活動については、その社会的便益は私的便益よりはるかに小さい。極端なケースでは、遷都によってすべての企業が情報収拾活動を減少させると、かえって社会全体の生産性が高まるケースもありうる。
これらのことを考慮に入れると、遷都によるコミュニケーション費用の増加は、8兆円よりはるかに小さくなり、高く見積もってもその半分以下ではないかと思われる。
以上をまとめると、公務員宿舎を含む移転跡地の利用による便益によって、14兆円と試算されている新首都建設費用をまかなうことができそうであり、場合によっては余りがでる可能性がある。遷都によるコミュニケーション費用の増加は4兆円以下であろうと推測できるので、移転跡地の便益が大きければ、全体としての純便益もプラスになることがありうる。
次に、首都機能移転の間接効果を考えてみよう。価格体系に歪みが存在しない世界(経済学者がファースト・ベストと呼んでいるケースで、市場が完全で、しかも競争的であり、さらに税制等の歪みも存在しない経済)では、間接効果による社会的便益と社会的費用は相互に相殺し合うことが知られている。したがって、ファースト・ベスト経済での費用便益分析においては、直接効果だけを考えればよい。しかし、現実には、外部経済や不経済が発生したり、独占的行動や税制による価格体系の歪みが存在したりしているので、間接効果を無視できない。首都機能移転の費用便益分析において特に重要なのは、東京のような巨大都市を作り出す原動力となっている集積の経済が外部経済をもたらしていることである。逆に、大都市における混雑は外部不経済を発生させている。このような外部経済・不経済が存在する場合には、間接効果を無視することはできない。
例えば、集積の経済が混雑の外部不経済を上回っている場合には、東京の規模は過小になっている。この場合には、遷都による人口の減少は、過少な人口をさらに少なくすることになって、悪い効果を持つ。もちろん、東京での過密があまりにひどくて、混雑の外部不経済が集積の経済を上回る状態になっていると、遷都はプラスの間接効果をもつ。
集積の外部経済が東京の人口を過少にしているという上の議論は、図1の都市の階層的構造の中で、中枢管理機能を果たしている都市が日本に東京だけであることを与件にしている。ところが、集積の経済はもう一つ別の市場の失敗をもたらす。中枢管理機能を果たす都市が東京以外にもう一つ存在した方がよくても、市場メカニズムに任せておいたのでは、そうならないことがあるからである。この種の市場の失敗が発生するのは、中枢都市を2つにした方が望ましくても、最初から東京に対抗できる巨大都市を作ることは不可能だからである。大阪に東京の本社機能の半分を引っ張って行けば東京に対抗できるとしても、現状では大阪に立地する大企業の本社はわずかであるので、十分な集積の利益を享受できない。このような状況ではどの企業も東京に留まることになり、東京一極集中は解消されない。
遷都は東京の集積の経済を小さくする効果をもつので、その結果、中枢管理機能の分散が可能になるかもしれない。もし遷都によって一極集中型国土構造が多極分散型国土構造に移行するならば、間接効果は大きな純便益をもたらす可能性がある。例えば、民間中枢管理機能が東京と大阪に分散すれば、東京の過密が解消して、国民全体の生活水準が大きく向上することが考えられる。ただし、このようなシナリオを実現するためには、首都機能移転に加えて、第二の中枢都市の育成を強力に推進することが必要になる。
以上の議論から分かるように、首都機能移転が国民全体にとって望ましいかどうかの評価には、
(1)跡地利用の便益が新首都建設費用とコミュニケーション費用の増加分を上回るかどうか、
(2)東京の過密があまりにひどい状態になっていて、集積の外部不経済が外部経済を上回っているかどうか、
(3)遷都が中枢管理機能の多極分散化をもたらすかどうか
の3つの点の検討が必要になる。首都機能移転に必要な財源が膨大であることを考えると、遷都の意思決定を行う前に、これらの3点についての十分な調査・研究を行うことが、国民に対する政府の責務であろう。